こんにちはウィロアです。
海外在住数年、数十年の方、目標、キャリア、家族の有無によってまたその時々によって違うけれど、一度は思ったことあるんじゃないかな。
「日本に帰国したい」
一時帰国じゃなくてもっと長く、何なら永久帰国。特に配偶者の仕事や国籍によって海外に永住にすることになった方はその国になじんだとしてもふとした瞬間に帰国が頭をよぎる瞬間があると思います。今回は私自身帰国に至った過程を振り返ります。
現在の私
子連れ帰国して数年。夫は同じ会社(韓国)に勤務。別居中です。
年に数回会うという家族の形を保っています。
当初は少なからず夫に対して申し訳なさと心細さがあったけど、現在は、私自身は帰国して本当に良かった!心も体も健康になりました。

やっぱり健康が第一だよ。健康第一ってシオモニ(義母)も言ってたし。
だけど、帰国を思い立ってすぐに実行できたわけではなく数年間思い続けていてやっと実行に至ったというところが正直なところ。そもそも自分が本帰国なんてできると思っていなかった。じゃあなぜそう思っていたのか、それをどうやって乗り越えたのか、過去の私を振り返りながらまとめていきます。
過去の私
ネット記事を読んで国際結婚で頑張ってる人、永久帰国を迷っている人の葛藤を読んだりしつつ一時帰国を楽しみに過ごす日々でした。
専業主婦歴が長かったけど、ありがたいことに帰国直前まで契約更新しながらとはいえ数年間、良い人たちに恵まれて働いていました。
夫を通じてしか社会とつながれていなかった自分がやっと自分の世界を持てた気がして、大変だったけど絶対に手放したくない頑張ろう!と必死でした。夫も大満足だったし、休暇時は日本に帰国できるし、シデク(義宅)の私に対する態度もガラッと変わるし(韓国あるある笑)、日本人の知り合いも増え、忙しく過ごしていました。私は本当に人と運には恵まれていました。感謝しかない。
でも、新しい家が完成して夫の職場近くに引っ越すことになったのです。前から決まっていたこととはいえ、正直引っ越したくなくて夫に伝えたけど、数年間通勤で苦労していた夫には悲願の引っ越し。受け入れられませんでした。
大変だったのは
・平日 車で片道45キロの道をぶっ飛ばして通勤
・子供の学校が遠くなるので私が担当して送迎必要

私には無理だった。体力気力限界。
ただでさえ交通事故が多い韓国。
慣れない仕事でフルに頑張っている上にさらに運転時間が伸びる。その上、子供の学校、塾の送り迎え。シデクや友人の集まりでも味方になってくれない、家で手作りのご飯が当たり前…何度か話し合ったけど、お互い疲れてるし、うまくかみ合わない。その上、子供は反抗期で…結局、私はお前の幸せな人生を盛り上げるための脇役かよ!?くらいに心が冷え切ってました。
今振り返ると夫も職場で昇進して管理業務が増え、私を支える余裕はなかったんだと理解できるけど…
帰国を阻んだ思い込みとそれを乗り越えた方法
それでも自分には韓国に永住するしかないと思い込んでいました。
理由は他の方もどれも心あたりがあるんじゃないかな…
①子供が現地校に通っていた
②夫と離れる勇気がなかった
③日本での経歴不足による経済的不安
④家族(父)の反対
結論から言うと、時間の経過と子供の努力、あとは自分の考え方の変化かな…
⇒で乗り切った方法や気持ちを書いていくよ!
①インター、日本人学校は遠すぎるので現地校に。(もちろん経済的にも超負担)日本人母として嫌な思いを1回もしなかったというのは嘘になるけど、韓国の給食の充実度や運動会のちょうどいい気の抜き方(いい加減!?)は現地校に入れてよかったと思う点でした…が!!家で日本語を使っていても社会生活をしているとインプット言語が優位に立ちますよね。漢字がわからないので日本の教科書が読めない。帰国は無理と決めつけていました。
⇒受け入れてくれる学校を探す。都内で帰国生を積極的に受け入れている学校のフェアが開かれていたので、一時帰国時に参加。各ブースを訪問→その後いくつかの学校で開かれる説明会に参加。帰国生専用の塾もネット情報で仕入れる。数校受験して無事合格。入学後はこどもの努力が大きかった。韓国で引っ越しを強行されてしまったせいで、高校は中学校の友達と離れてしまうことが確定していたので、子どもも日本行きに前向きだった。
②基本的に夫はとても穏やかで真面目で健康。ギャンブルしないし、静かに本を読んだり、運動したり誠実にこなしていくタイプです。お酒は好きだけど、楽しく飲むタイプだし、ちゃんと会社生活を送ってくれて、日本帰国も自由です。こんないい人なかなかいません!(笑)離婚になっちゃうかもな、っていう覚悟は当然ありました。
⇒休みのたびに会うことにして解決。近いからこそ可能だけど、年に4回は会っています。大変だったのはコロナ禍。毎日のline通話で乗り越えました。
③新卒で就職したものの20代後半で結婚出産子育て、韓国で数年働いた実績はあったけど、この経歴で40代で子育てしながら雇ってくれるところがある?そもそも自分が日本社会に復帰できるか、適応できるか疑問で…
⇒とにかく働き始める。正社員を探さず帰国適応期間と決めて動く。なるべくTHE日本っていう感じではなく国際的な職場が私の背景も理解してもらえそうだったので、派遣登録。すぐ決まり3年満了まで一生懸命働きました。業務量が多くて大変だったけど、久しぶりに日本で働けて幸せだったし、契約満了すると派遣会社から信用されるのか、同じ派遣会社なら次もよい条件の会社を紹介してもらえると実感。
④結婚に誰よりも反対していた父は結婚後は一時帰国ならまだしも、戻ってくるなと言っていました。親を捨てて反対を押し切っていくのならその土地の人間になれと。私が精神的につらいときも子どもを考えて我慢しろという立場でした。
⇒強行突破。私も強くなってたのでそんなことは気にしてられませんでした。たまに嫌味は言われましたが、数年で帰国したわけでもなく、夫の同意を得ていることで納得してくれたんだと思う。他には私が現地で数年働いて実績を作っていたことと、こどもが大きくなっていたこと。結局実家には数か月滞在しただけだったし、私の本気度が伝わったのかな。申し訳なく感じる必要はなかったと思う。
最後に
私は30代の頃、自分が気を使ったり努力をしても誰も評価してくれなくて、それが辛くて、でもそれは自分が悪いのだと思っていました。体力も落ちて、何かに挑戦したいと思う気持ちさえも無くて、かといって自分には何もない、貢献できることはない、できることは家事をして家族を守ることだけだって思い込んでいたんです。それは自分が決めた結婚だから、って。子どもも小さかったし。
でもそれは「誰でもそういうときもあるよね、でもそれは時間が解決するかもしれないし、自分の行動で変わるかもしれないよ」って昔の自分に伝えたい。そして今どこかで頑張っている誰かにもそう思ってほしい。
私が日本に帰国という発想が出て実行できたのは韓国で働くことができたから。でもそれも仕事を紹介してくれた人達がいて、支えてくれた人たちがいました。おかげで少しずつ自分に自信を取り戻して欲も出てきました。だから、何でもいいから少しずつ前向きに動いてみてほしい。あなたを応援してくれる人たちを大事にして、動く、そして時を待とう。そしたら現地にいても、日本にいても楽しいことに出会えるかもしれない。
とにかく私は自分の人生に納得感をもって生きたかった。外野の意見を聞いて自分が納得できるならそれもいい。すべて自分の思い通りにはいかないけれど、少しずつ調整して、自分の人生に納得できるように自分が決めていこう。

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